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モニュメント

■復元「里程元標」■■■■■

 

里程元標とは、道路の路線の起点や終点を表示するための標識です。
当時の里程元標は高さ一丈二尺(3.63m)の木製で、

「島松駅、対雁(ついしかり)駅など周辺の里程標までの距離」

などが記されていました。

■「札幌建設の地」碑■■■■■

 

大地を象徴する球体の上に、東西南北の基点を表す菱形、さらに将来の発展を祈る指月形が積み重ねられています。

ここが札幌のまちの基点となることを示すものとしては、昭和41年までは「道路の起点」ということが、わずかにわかる程度の粗末な石が置かれていました。

そこで南一西一町内会(現・本府地区第一町内会)が「後世に残そう」と、昭和42年4月29日に創成橋付近にこの碑を建立し、保存してきたものです。

「札幌建設の地碑」は、札幌の建設がこの地から始まったことを後世に伝えるために建てられた記念碑で、札幌発祥の礎石の由来、歴史などを刻み込んでいます。

■大友亀太郎像■■■■■

二宮尊徳の開墾法などを学んだ「大友亀太郎」は、イシカリに御手作場(当時の官営農場)を開くこととなり、1866年に現在の東区に元村御手作場を開きました。

そこでまず、飲料水と灌漑用水の為の水路を掘ることから始めました。

これが、創成川のもととなる「大友堀り」です。

この堀は、やがて水運に利用され、数カ所に水門を設けたり拡張したりして、現在の創成川へと姿を変えていきました。

大友堀が創成川と名前を改めたのは、明治7年のことです。

大友堀を掘った「大友亀太郎」の事跡をたたえて、昭和61年5月に北1条橋の袂に記念碑が建立されました。

像の高さは2.7mで、望遠鏡を手にして堀を監督していた32歳の亀太郎が、創成川の流れを見守ってくれています。

この像は、工事に伴い東区の「札幌村郷土記念館」に移設されていましたが、公園の完成に伴い、この創成川河畔に戻されました。

■創成橋親柱・擬宝珠■■■■■

1910年(明治43年)に架けられた創成橋の親柱と擬宝珠(ぎぼし)。

一度紛失したため、昭和49年に復元されたものです。

擬宝珠は、徳川時代であれば、藩主が中納言以上の位でなければ橋につけることが許されなかったと言われるもので、創成橋が格式高い橋であったことがうかがえます。

■「創成橋」の復元■■■■■

 

 

創成橋の始まりは、明治2年(1869年)、丸太を並べ板を敷いただけの橋であったと言われています。

明治4年(1871年)、大友堀の拡幅に伴い手すりつきの橋が架けられ、岩村道俊判官が「創成橋」と名付けました。

木橋だった創成橋は、明治42年4月7~8日の豊平川の氾濫で上流の水門が崩壊したことで、橋が流されてしまいました。

翌、明治43年(1910年)10月、東京日本橋と同時期に、日本橋と同じモダンな石造アーチ橋に架け替えられました。

この橋は、北海道神宮の行列の神様がお休みになる南1条東2丁目の頓宮への表参道を意識して架けられたもので、下部の構造がアーチ型、上部は純日本風のデザインで、両側の高欄14カ所に擬宝珠が取り付けられたものです。

この度アンダーパス及び公園の整備事業に合わせて技術検討委員会が設けられ、市内で最も古い橋である「創成橋」が復元されました。

■創成橋 車止め■■■■■

明治4年(1871年)に橋が架けられたときの車止め。

百年以上の風雪によって、その文字も「創」の字が消えてしまい、「成」が半分と「橋」という字しか残っていません。

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