中島公園の歴史を振り返る

札幌の町と豊平川(1) 札幌の町と豊平川(2)
中島の由来 鴨々川と元右衛門堀
中島遊園地の設定 岡田花園
中島遊園地から中島公園へ 開道50年記念北海道博覧会
戦後の中島公園

札幌の町と豊平川(1)

私たちの町札幌は、アイヌの時代にはまだほとんど人の住んでいない場所であったようです。江戸時代には松前藩が蝦夷地を支配し、コメが取れない替わりアイヌとの交易権を家臣に分け与えていましたが、それを「場所」と呼び、札幌近郊にも「ハッシャブ」「上サッポロ」「下サッポロ」など七つの場所があったようです。

ここでいう「サッポロ」とは、地名ではなく、当時の豊平川の名前である「サッポロペツ」から来ています。

ペツとはアイヌ語で川のことで、別が付く地名が道内に多いのは、川の名前がそのまま地名になっているからです。(川にはもう一つナイという呼び名がありましたが、これも内という地名で各地に残されています。)

札幌の語源は、古来様々な解釈がありましたが、今では「乾いた・広い」が最も適当とされています。

サッポロペツは、山鼻辺りから札幌の中心部にかけて大きな扇状地を形成していたため、ここに本府を設定するにあたり、サッポロの名前を付けたというのが妥当なようです。

ただし、名付け親として知られる松浦武四郎は、察縨や札縨の字を用いており、明治の初めには様々な字が使われていました。

(参考:「札幌のアイヌ地名を尋ねて」山田秀三著、楡書房、1965)

(参考:「札幌百年のあゆみ」札幌市史編纂委員会、札幌市、1970)

(「札幌のアイヌ地名を尋ねて」山田秀三著より)
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札幌の町と豊平川(2)

川の名前であったサッポロペツから、サッポロが取り出されて町の名前「札幌」になりましたが、では川の名前はどうなったのでしょう?松浦武四郎の「後方羊蹄(しりべし)日誌」には、定山渓を越えて札幌に入った時のことを、「原中に土人小屋を見つけたり。これヌツホコマナイ(現在の上山鼻川らしい)という。すなわち樋平の北岸なり。」と記してあります。ここでいう樋平とは、サッポロペツが平岸台地を削って造られた河岸の崖(アイヌ語でトイェピラ=崩れた崖)のことであり、これを取って川の名前にし、さらに漢字を当てて豊平川としたものです。

札幌の町の基盤を作り、豊かな水を提供し、札幌の母なる川である豊平川は、こうして歴史に名を残し始めることになるのです。

また、開拓使が乗り込む前のこの地には、石狩の役所より樋平の渡し守を言い渡されていた志村鉄一と吉田茂八の二家族が、両岸に住んでいるだけでした。

この二家族の計8人が、札幌の和人では最も古く住んでいたということになります。

(渡し場の位置は、現在の豊平橋より少し下流であったといわれますが、現在豊平橋の向こう岸に記念の碑が建てられています)

(参考:「札幌のアイヌ地名を尋ねて」山田秀三著、楡書房、1965)

(参考:「札幌百年のあゆみ」札幌市史編纂委員会、札幌市、1970)

(参考:「さっぽろ山鼻百年」、さろるん書房、1977)

(「さっぽろ山鼻百年」より)
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中島の由来

中島公園は、その名前の通り、豊平川の流れによって生まれた地形が、その由来になっています。藻岩山が大きく突きだしている軍艦岬を過ぎたあたりから、かつての豊平川か大量の砂礫を堆積し、豊平川扇状地を形成しました。

藻岩円山の山塊から平岸台地の間を、様々に流路を変更してきましたが、現在の流路になったのは1801年か2年のことと記録されています。

開拓使が本府を設定した頃でも、豊平川の流路は本流だけでなく、様々な分流があったと考えられています。

その中で現在も形を残しているのは鴨々川だけで、そのほかはすべて地上からは姿を消してしまったのです。

その鴨々川と本流に挟まれた地域を、鴨々中島と呼び、本流の対岸の地域を中島(なかのしま)のちの中の島と区別されていました。

鴨々川の由来については確証がありませんが、札幌の町が京の街並みを意識したものであること、円山や伏見などの地名も含めて京にならったものがあること、などの理由と、当時から数条に分かれていたために鴨々川となったという説があります。

島判官の後を受けて札幌の街並み形成を推し進めた岩村判官は、北に偕楽園、南に中島、西に円山、東に苗穂の公園配置計画を持っていたといわれ、当初から公園予定地に模されていたのです。

(参考:「中島公園百年」山崎長吉著、北海タイムス社、1988)

(参考:さっぽろ文庫44「川の風景」札幌市教育委員会編、北海道新聞社、1988)

さっぽろ文庫「川の風景」より
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鴨々川と元右衛門堀

開拓使は、札幌の町の建設にあたり、現在の創成東地区に工作所を設けています。その中には、創成川の水力を用いて木材を加工する木挽所があり、豊平川の上流から流送した木材を鴨々川から創成川を経由してここまで運び、次々と板や柱を挽いて建設資材を作ったのです。

道路の整備が遅れていた当時では、最も効率的に大量の木材を運搬することができた訳です。

さっぽろ文庫44「川の風景」にある「札幌扇状地古河川図」を見ると、中島公園のあたりに小さな池があります。

この池を拡張して貯木場にすることにより、安定して材料の供給ができるようになったことでしょう。

この工事を請け負ったのが鈴木元右衛門だったことから、この池を「元右衛門堀」と呼ぶようになったのです。

この池は四角の池が二つ並んだ形であり、遊園地になったあともほとんど同じ形のまま利用されていました。

戦後1958年(昭和33年)に開かれた北海道大博覧会に合わせて日本庭園を建設する時に、ようやく大きく形を変え、現在の菖蒲池になりました。

(参考:さっぽろ文庫44「川の風景」札幌市教育委員会編、北海道新聞社、1988)

(参考:「中島公園百年」山崎長吉著、北海タイムス社、1988)

(参考:「札幌百年のあゆみ」札幌市史編纂委員会、札幌市、1970)

元右衛門堀とされたものもあるが、

創成川の写真かもしれない

(「さっぽろ山鼻百年」より)

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中島遊園地の設定

札幌の街割りを定めたのは、島の後を継いだ岩村判官でしたが、彼は真っ先に偕楽園を遊覧の地として設定しました。彼は同時に南の中島、西の円山、東の苗穂にも公園を設定する構想を持っていたといわれています。札幌の本府は一里四方で設定され(南側は現在の南7条)、追って山鼻に屯田兵村が設置されると、それに挟まれた中島が双方から目をつけられることになりました。

そして札幌区では、1883年(明治16)年にこの区域を公園予定地にしてほしいと要望書を出し、その後の整備工事を経て、正式には1886年(明治19年)12月15日付で、『中島遊園地』が札幌区に編入され、住所も中島遊園地になったのです。

この時の整備によって、元右衛門堀の南側に北海道博物陳列場が建設されています。

それまで大通で行っていた物産共進会がだんだん手狭になり、常設展示を行う施設の要望が高まったことを受けて建設されたものですが、これが後の博覧会へと繋がっていくことになりました。

もう一つ特徴的に施設として、競馬場も作られています。

元は偕楽園の北に設けられていましたが、手狭なため、博物陳列場の南に建設されました。

西洋式の農業が広がるにつれ、牛馬による耕作が盛んになり、その馬による競馬が盛んになったものでしょう。

(参考:「中島公園百年」山崎長吉著、北海タイムス社、1988)

(明治24年の札幌地図より)
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岡田花園

現在の豊平館から八窓庵にかけて、さらには鴨々川の向こう側には、かつて岡田花園という花の名所がありました。開拓使の御用商人であった岡田佐助が、1889年(明治22年)札幌区の公有地を借り受け、和漢洋の様々な花卉を植えたフラワーパークを作り上げていたのです。この時期には、現在の天使病院のあたりに、信濃から入植した上島正が『東皐園(とうこうえん)』という人気の花園を作り上げていたことから、北の東皐園、南の岡田花園として利用されていたようです。

中島遊園地の運営は、いわば民活事業として様々な施設が整備されています。

1888年(明治21年)には、二層の大中亭を設け、池にウグイを入れて釣り堀とし、その後貸しボートまで登場しています。

さらには西ノ宮、日吉亭、大正亭、臨池亭などの料亭やお休みどころが池の周囲に次々と建てられていきました。

周囲にたくさんある寺社のお祭りや博覧会、競馬、相撲大会、花火大会など、明治のこの時期から札幌市民の憩いの空間になっていた訳です。

岡田花園は造園も手がけており、ここで技術を磨いた職人の中には、現在も手広く造園を営んでいる横山造園や小林集楽園の創業者がいました。

中島遊園地周辺には西村花香園や南香園などの園芸店もたくさんあり、いわば園芸や造園の中心地であったといえるでしょう。

岡田花園は、その後公園に取り込まれて姿を消してしまいましたが、現在天文台のある山に岡田山の名を残し、唯一その名残を留めているのです。

(参考:「中島公園百年」山崎長吉著、北海タイムス社、1988)
(参考:「札幌歴史写真集(明治編)」札幌市教育委員会編、北海道新聞社、1982)

(「札幌歴史写真集(明治編)」より)
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中島遊園地から中島公園へ

1886年(明治19年)12月15日付で、『中島遊園地』が札幌区に編入され、正式に中島遊園地という地名になりました。一里四方の本府の南側にあり、川の流れや池の風情に優れた中島遊園地には、物産陳列場での様々な品評会、競馬場での競馬も人気を呼びましたが、1888年(明治21年)に現在のこぐま座の裏手に料亭の大中亭を設け、池にウグイを放して釣り堀にすると共に、ボートを浮かべて船遊びの場所として利用が始まっています。23年24年にもコイや金魚の放流が行われており、池の中もどんどん賑やかになっていったのです。

岡田花園や大中亭などは、宴会の場所としても人気を集め、数百人規模の園遊会すら催されていたようです。

自前ではなかなか整備が追いつかない当時の行政に代わり、民間活力の活用によって公園整備が進められていったともいえるでしょう。

そのような賑わいのある場所として、中島遊園地は市民にも親しまれる場所として定着していきましたが、1907年(明治40年)には、当時わが国最高の造園技師といわれた東京市の長岡安平氏に、円山公園と共に公園設計を依頼しています。

二年後に提出された設計図は三つの工区に分かれていました。

  1. 第一区 自然の美景、池の拡張、遊船、岡田花園の改良
  2. 第二区 豊平川堤防整理、自然動物園設置、清水・池づくり、公会堂建設予定地
  3. 第三区 池と植林、花卉、遊泳場の設置

こうして1910年(明治43年)には整備工事を実施し、公園としての体裁を整えていくことになったのです。この年、それまでの中島遊園地から「中島公園」と呼ばれるようになっていきました。

(参考:「中島公園百年」山崎長吉著、北海タイムス社、1988)

長岡による中島公園設計図(札幌市蔵
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開道50年記念北海道博覧会

明治の終わりには、中島遊園地から中島公園への整備が進んだだけでなく、偕楽園にあった屯田兵招魂碑の移転に伴った札幌招魂社(現在の護国神社)の建設(明治40年)、伊夜日子神社の建設(明治45年)など、日露戦争戦勝の勢いもあり、札幌の町も活気づいていたことが窺われます。明治44年には皇太子の行幸があり、整備されたばかりの中島公園で、区内小学校児童の遊戯をご覧になった後、北海道物産陳列場にも立ち寄られたとの記録があります。競馬場移転跡地を活用し、まさに総合公園としての役割を果たしてきているのです。

1918年(大正7年)には、開道50周年北海道博覧会が、中島公園をメイン会場に華やかに開催されました。

たくさんの観客を運ぶために、当時はまだ馬鉄だった市内の交通網を急遽電化し、駅前から中島公園まで電車の路線を設けたのです。

ただ、駅前を真っ直ぐに進むと薄野遊郭の中を通らざるを得なくなるので、南4条で3丁目通りに迂回し、現在のパークホテル裏に停車場を設置したのです。

このため現在でもここを中島公園入り口と称する場合があるのは、この歴史があるからなのです。

博覧会は8月1日から9月19日までの50日間、全体の入場者は道内の人口にほぼ匹敵する142万人にも上ったということです。

(札幌の人口は9万あまり、函館や小樽よりも小さな町でした)そしてなによりもそのパビリオンの素晴らしさです。

第一級の建築家による目を見張るような建物が並んでいました。

中島公園は、昔も今もこのような賑わいが本当に似合う第一級の公園であり続けてきたといえるでしょう。

(参考:「中島公園百年」山崎長吉著、北海タイムス社、1988)

(参考:さっぽろ文庫84「中島公園」札幌市教育委員会編、北海道新聞社、1998)

(「札幌歴史地図(大正編)」札幌市教育委員会編、北海道新聞社、1980 より

(「札幌歴史地図(大正編)」札幌市教育委員会編、北海道新聞社、1980 より)
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戦後の中島公園

戦後の世相も少し落ち着いてきた1957年(昭和32年)3月23日には、中島公園は総合公園として告示され、新たな歩みを踏み出すことになりますが、ちょうどその頃に大通にあった豊平館の移築工事が始まっており、翌年5月に現在地に移築工事が完成しました。1918年(大正7年)の開道50周年北海道博覧会から40年後の1958年(昭和33年)には、北海道大博覧会が中島公園を舞台に開催されることになっていたため、早速豊平館は郷土館と美術館として活用されました。博覧会のあとは、結婚式場として利用され、人気の式場として年間千組もの式が催されたこともあったようです。

その後は結婚式の大規模化に伴い、ホテルや専門の式場に人気を奪われていきましたが、最近では重要文化財での結婚式を売りに、再び脚光を浴びてきているようです。

北海道大博覧会に合わせて日本庭園を整備するなど、現在の姿に近くなりましたが、中でも博覧会跡地を百花園として整備し、噴水を中心にしたサンクンガーデン(沈床園)とそれに続くバラ園は、以降の中島公園の中心施設しして市民に親しまれることになりました。

現在ではマンション群に取り囲まれて窮屈に感じてしまいますが、当時は藻岩まで見渡せる広々とした百花園内に、噴水の中心にあった山内壮夫作の白亜の彫刻である『森の歌』や、バラ園内に点在していた四体の山内の彫刻群は、伸びやかな公園空間を演出して、とても気持ちのいい空間だったことを思い出してしまいます。

(参考:さっぽろ文庫84「中島公園」札幌市教育委員会編、北海道新聞社、1998)

(参考:さっぽろ文庫15「豊平館・清華亭」札幌市教育委員会編、北海道新聞社、1980

噴水の中央にあった白亜の「森の歌」 マンションも見当たらない広々とした百花園
監修:(有)緑花計画 笠康三郎
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